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京都地方裁判所 昭和55年(ワ)1176号 判決 1984年7月05日

原告

西村澄敏

原告

中川ミドリ

右両名訴訟代理人弁護士

川中宏

渡辺哲司

飯田和子

村井豊明

稲村五男

加藤英範

村山晃

森川明

田﨑信幸

近藤忠孝

渡辺馨

被告

財団法人和進会

右代表者理事長代行

切石安亀雄

右訴訟代理人弁護士

高島良一

猪野愈

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  原告らが被告に対して雇用契約上の権利を有する地位にあることを確認する。

2  被告は、

原告西村澄敏に対し、金一七九五万一二六一円及びこれに対する昭和五八年九月一四日から支払ずみまで年五分の割合による金員並びに同月二五日から毎月二五日限り金三二万四五九〇円の金員を、

原告中川ミドリに対し、金一二九九万〇一七六円及びこれに対する昭和五八年九月一四日から支払ずみまで年五分の割合による金員並びに同月二五日から毎月二五日限り金二四万三〇一〇円の金員を、

それぞれ支払え。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

4  右第2項につき仮執行の宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨の判決。

第二当事者の主張

一  請求原因(略)

二  請求原因に対する認否(略)

三  抗弁(略)

四  抗弁に対する認否(略)

五  原告らの主張

1  本件に至る経緯と背景

(一) 組合の活動と原告らの役割

(1) 組合は、昭和三七年九月一四日結成され(その後、一時京都医療労働組合連合会(以下「京医労」という。)和進会支部に組織変更されたが、昭和五三年一〇月再び単独労組に改組。)、結成の年の一一月一律三〇〇〇円の賃上げに成功したほか、同年一二月被告との間にユニオンショップ協定及び唯一交渉約款を締結し、以後、毎年の賃上げや一時金闘争においてはもとより勤務時間の大巾短縮や勤務条件の改善等に取り組み、着実な成果を上げてきた。そして、昭和四九年六月の職員のエレベーター転落事故の発生を契機に、単に経済闘争のみでなく、職場改善闘争や人事民主化闘争にも取り組むようになり、過去三〇年近くにもわたり企業努力を怠り、無責任な管理、経営をしてきた被告に対し、諸種の業務改善の要求をし、これを実現していった。

(2) また、昭和五二年秋ころには、原告中川の直属の上司である売店係長訴外村上良三(以下、「村上係長」という。)が、原告中川を危険思想の持ち主として五年間にわたって監視していたことが判明し、これとほぼ同時に、同係長が長年にわたり連日のように物品と金銭の横領をしてきたことが露見したことから、組合はこれらの問題を取り上げ、現物を係長に任せ切りにして、必要な管理、監督を怠ってきた被告の理事会の責任を追及した。更に、昭和五三年夏には、食堂係長の訴外辻友一(以下「辻係長」という。)の金銭横領事件が発覚し、これに対しても組合は必要な取り組みをし、従前の職場のボス支配体制を打破していった。更に、昭和五三年春闘時には二回の半日ストを敢行し、昭和五四年春闘時には、スト突入は避けたものの、被告に対し昭和五二年に締結した保安協定破棄を通告するなど強硬な姿勢で闘い一定の成果を得た。

(3) 原告西村は、組合結成の中心人物であり、初代から三期連続で組合長を務めたほか、副組合長を三期務めるなど終始、組合活動の中心となってきた。殊に、昭和五一年からは四期連続組合長を務め、その間の組合活動を強力に指導してきた。また原告中川は、組合結成の際、執行委員を務め、その後も昭和三八年執行委員、同三九年副組合長、同四七年書記次長等を歴任したほか、職場の中心的な組合活動家として、また、売店における団結の要としての役割を果たしてきた。なお、並川書記長も、昭和四四年から同五七年までの間一三期連続して組合書記長を務め、原告らとともに組合の中核をなしてきたものである。

(4) なお、被告は、後記(六、1、(一)、(2))のとおり、昭和五二年九月三〇日から同五四年一二月二八日までの約二年間に組合が一三名の職員を退職に追いやった旨主張するが、村上係長、辻係長については前記のとおりの事情でその後自発的に退職したものであるし、他の一一名についても、それぞれの事情で任意退職したものであって、退職に組合が圧力をかけたことなど全くない。

(二) 被告の組合つぶしの策動

ところが、被告は、一つには京大病院の圧力により、一つには経営の合理化を推進するため、組合活動を押え込む方向の組合対策をとるようになった。すなわち、京大病院当局は、昭和五三年一〇月、給食等問題検討委員会を設置して、「給食、寝具の運営改善に関する意見」を出したが、その中で組合のスト対策と、将来の給食の直営化をうたうなど、被告に対して強力な組合対策をとるよう圧力をかけたため、また、全国的傾向としての不採算部門の切捨て、民間会社への再下請化という経営合理化を推進するうえで組合が支障となったため、被告は右のような組合対策をとる必要に迫られた。そして、右のような被告の労務対策のための尖兵として昭和五四年八月被告に入ってきたのが柴田理事である。すなわち、同人の経歴には不明部分が多いが、昭和五〇年から同五二年ころまでの間「山幸運輸」という運輸会社に管理部長として雇われ、当時同社にあった全自運(現「運輸一般」)山幸運輸支部をつぶした実績を有するほか、京都踏水会労働組合の争議対策の指導も行なっており、被告入団当時も、住友生命京都支社の保険外交員として在籍する一方で、被告に労務担当理事として入ってきたものであって、以上によっても同人が組合つぶしのために被告に入団したものであることは明らかである。

(三) 柴田理事の組合攻撃

(1) 就業規則研修会等

柴田理事は、昭和五四年九月二五日の係長会議をはじめとして、同年一〇月に入ってから係長会議、職制(係長、主任、副主任)会議を盛んに実施し、更に全職員を対象とする就業規則研修会を開催したが、これらの中で同人が強調したのは、就業時間中は組合員の心理構造で働いてはならず、時間内組合活動は一分一秒たりとも許されない、また、業務命令に対しては絶対服従すべきであり、これらに違反すれば厳罰に処するということであった。要するに、その主旨は厳罰主義をもって職制の命令への絶対服従を迫り、組合活動を批判攻撃し、「職場離脱は重罪だ。軍隊だったら銃殺だ。」「ここの理事や係長はボンクラだが、係長命令は私の命令ゆえ、それに従わない者は解雇する。」「企業秩序をみだして処分に該当するものがたくさんいる。四〇〇人(従業員とその家族)のために腐ったリンゴは取り除かねばならない。」などとして組合員を恫喝することにあった。

(2) 労使慣行の一方的廃絶

被告と組合間には、執行委員会等や、婦人部会等の比較的時間のかかるものは事前の届出により、短時間で終了し業務に支障を与えない範囲の日常的な組合活動は就業時間内においても認める旨の労使慣行が存在していたが、柴田理事はこれをきわめて欺瞞的方法で一方的に廃絶した。すなわち、昭和五四年春闘時の団体交渉において、右慣行の協約化が問題となり、議論の末、春闘妥結協約の中に「財団は労働時間内において組合が行う一定の組合活動を認める。実施にあたっては組合は事前に届け出るものとする。一定の組合活動については別途協定する。」という確認が盛り込まれ、これは同年九月二六日に組合と被告間で調印された。そして、その趣旨は一定の組合活動についての別途協議ができるまでは従前の労使慣行に従うというにあることが労使間の当然の前提であったのに、被告(柴田理事)は、右調印により労使慣行は廃絶されたとして、同年一〇月二二日、組合に対し、一方的に時間内組合活動は一切認められない旨通告してきた。

(3) 柴田理事のその他の言動

柴田理事は、同月二六、二七日、組合長である原告西村や副組合長訴外池垣みさ江(以下「池垣副組合長」という。)を呼びつけ、退職金の額を告げながら、「あんたは退職金がたくさんありますなあ。こちらとしてはなるべく犠牲者は出したくないがな。」などと恫喝したほか、同月二四日には売店の柿の値札の件で何の責任もない原告中川を不当にしっ責し、また、同月二九日には特別調理用の手鍋の柄が折れていたとして、給食事務室において右手鍋を投げつけ、吉田係長(当時組合員)らを叱りつけるなど、不当、粗暴な言動を繰り返した。

(四) 組合の反撃

以上のような被告の動きに対して組合が警戒を深め、これに反撃しようとしたのは当然のことであって、まず、執行委員会の決議を経て、組合員に「労務屋に和進会は任せられない」などと記載したワッペンを着用させ、又は同様の内容のビラの貼付、配布を行なったが、これに対しても被告は労使慣行は一切廃絶になったと称してワッペン着用、ビラの貼付、配布や、その他些細な組合員の行動に対して警告書を乱発する所為に出た。

2  本件「村八分」事件の意味

本件「村八分」事件は全くの事実無根であるが、これは柴田理事の極めて巧妙な組合つぶしのための策謀としての意味をもっている。

すなわち、柴田理事は、井上ら三名のアルバイトを次々に雇用し、これを売店と食堂に配置したが、そのうち、井上は柴田理事がかつて第一生命に在籍した当時の部下で親子も同然の間柄であり、また、俣野は売店に全く欠員がないにもかかわらず雇用されたものである。また、従来からアルバイトは主婦か学生に限られていたのに、いずれもアルバイトにはふさわしくない働き盛りで、俣野などは同志社大学工学部卒業という学歴の持主であって、これら三名が柴田の手先としての役割を担っていたことは明らかである。そして、この三名は昭和五四年一二月二六日突然京都地方法務局の人権擁護委員会に調査申立をし(結局、この申立は取り上げられていない。)、これに呼応して、同月二七日、柴田理事は突如として原告らに「村八分」事件についての重大警告書を内容証明郵便で送りつけ、更に、「人権問題臨時調査委員会」を作って自ら委員長となり、昭和五五年一月七日、八日の両日にわたり調査を行い、同月八日には売店の女子職員をひとりずつ呼び出して調査の名のもとにこれを糾弾した。一方、村八分により人権侵害されたと称する三人のアルバイトは同月早々から「人権守る会」なるピンクの腕章もまいて、連日のように、職場を無断離脱して抗議にまわり、同月五日には、原告西村及び並川書記長らに対して小突く、殴るなどの暴行を振い、「足の二、三本も折ったろか。」などと脅迫した。そして、「人権守る会」の名で組合に対し中傷、誹謗を加えるビラをまく一方で、柴田理事の介入で、同月一六日、右アルバイト三人らを組合員とする新和進会労働組合(以下「新和労」という。)なる第二組合を結成した。しかしながら、右第二組合は、何ら運動方針をもたず、その活動は組合に対する口汚い攻撃と柴田理事賛美のビラを配るのみであって、柴田理事のかいらいとしての役割を見事に果した。そして、これらの策謀の結果、原告西村ら組合幹部の必死の組織防衛にもかかわらず、組合の組織は切り崩され、同年二月現在で三九名のものが組合から新和労へ移ったのである。

3  不当労働行為

本件解雇は労組法七条一号、三号に各該当する不当労働行為であり無効である。

すなわち、本件解雇が原告らの組合活動を嫌悪し、これを企業外に放逐する目的でなされたものであることは、以上に述べてきたところからも明らかであるが、本件解雇後に被告(柴田理事)が強行してきた数多くの不当労働行為からも本件解雇当時の被告の不当労働行為意思を推認することができる。すなわち、被告は、昭和五五年三月一二日には理由もなく人事に関する事前協議約款(同五二年五月三一日締結)を一方的に破棄通告し、同約款は九〇日経過した同年六月一一日に失効したと称して、同年七月二一日以後昇任昇格人事、配置転換を繰り返し、その中で、徹底した差別人事を強行してきた。その実情は、組合員は各人の事情を無視した不当な配転を強いられたり、昇任昇格を極端に抑えられる一方、新和労の組合員はどんどん昇任昇格し(もちろん、右三人のアルバイトも異例の昇任昇格をしている。)、その結果、昭和五八年四月二〇日現在で、三六名の職制のうち新和労の組合員が二八名を占めるという、まさに柴田理事とそのかいらいたる新和労の専制支配体制が実現している。そして、右のような支配体制の背景の下に、被告は組合員に対し、不当な脱退工作、警告書の乱発などの攻撃を繰り返しているのである。

4  権利濫用

被告主張の本件解雇理由はいずれも理由のないことが明らかであるが、仮に、原告らの行為が、何らかの点で就業規則に違反するとしても、本件解雇は解雇権の濫用であって無効である。

すなわち、本件で問題にされている原告らの行為はいずれも組合の団結を防衛する意識からなされたものであって、被告における柴田理事就任以来の一連の経緯をみるならば、原告らがこれに反発し、組織防衛と団結維持のために一定の行動をとるのは当然のことであり、被告がすべての原因となった自らの不当な組合攻撃を棚に上げて、ひとり原告らの行為のみを責めるのは許されない。また、本件で問題にされている行為はいずれも些細なもので、「村八分」事件についていえば、仮に被告の主張が真実としてもせいぜい嫌がらせをしたという程度のものにすぎず、一方、新和労は本件解雇後の昭和五七年四月以降、新和労から組合に復帰しようとした数名に対し、徹底した個人攻撃を行なってその一部を退職に追いこんでいるのに被告はこれを放置していることに照らし、時間内組合活動についても、そもそも労使慣行によって許容されているのみならず、「人権守る会」の時間内ビラ配布等は全く問題にされていないことに照らし、また係長日誌の取り上げ問題にしても、その返却を決めた係長らが不問に付されていることに照らし、いずれも到底正当な解雇理由たりうるものではない。

六  原告の主張に対する被告の反論

1  本件に至る経緯と背景

(一) 組合の状況と体質

(1) 原告西村は組合長としての人望がなかったため、昭和四〇年からは訴外仲上義男が原告西村に替わって組合長になり、その間は組合も良識的な行動をとって良好な労使関係を維持していたが、同五一年一〇月、右仲上が翌五二年六月に定年退職することに伴い原告西村が組合長に返り咲くや、組合は非常識かつ独善的な活動方針をとるようになった。一例を挙げると、被告における最も重要な業務に特別調理食の給食(患者に対し医師の指示に基づく特別調理食を支給するもの)があり、もしこれが不能になると他で代替がきかないため患者は欠食を余儀なくされ、遂には人命にもかかわる大事に至ることも予想されないではない性格のものであるのに、原告西村の組合長返り咲き直後の昭和五二年春闘時には、組合は特別調理食部門についてのストライキもありうることを示唆して被告を恫喝し、そのため、被告は組合との間に、同年四月一六日、スキャッブ禁止協定と引き換えに「毎食運搬業務を除いて支障をきたさない」との保安協定を締結した。ところが、更に、昭和五四年春闘時においては、前年の春闘時に被告が最悪の事態を避けるために組合と締結した右保安協定さえも破棄し、特別調理食についてもストの構えをみせるなどの強硬姿勢をみせるに至った。

(2) また、組合は、昭和五二年五月三一日に被告との間に人事に関する事前協議約款を締結するや、これを、さきに締結されていたユニオンショップ協定とともに活用することにより、組合の意に添わない組合員を「村八分」にして職場から追放するという卑劣な独裁体制をうちたてるようになり、その結果、昭和五二年九月三〇日から同五四年一二月二八日までの間に、一三名の職員又はアルバイトが退職を余儀なくされた。右一三名の職員は、すべて組合の圧力によるか、又は組合を嫌悪して退職したものであるが、そのうち、売店の村上係長は組合が懲戒解雇を要求したものであり、また、訴外加藤靖丘という職員(以下「加藤」という。)は、もともと原告らから可愛がられていたにもかかわらず、共産党入党を拒絶したことから組合員全員から無視されるなどの「村八分」にあわされ、最後は被告の懇親会の後で原告西村と喧嘩をし、原告西村にパトカーに引き渡されるという事件をきっかけに組合が解雇要求をしてきたものであり、訴外今井君子という職員(以下「今井」という。)も本採用になる直前に組合が本採用にするなと要求したことから退職に至ったものである。また、訴外岸田恵美子という職員(以下「岸田」という。)は村上係長の後任の売店係長であったが、原告西村が日頃から「かざりものだから言うことを聞かなくてもよい。」などと組合員に言っていたもので、結局売店職員からいびり出された形で退職したものであり、更に、訴外川合節子というアルバイト(以下「川合」という。)は、昭和五四年一〇月二〇日ころから、組合に柴田理事の二号だなどと噂を立てられ、売店職員全員が同人を無視して相手にしないなどの「村八分」をしたために退職を余儀なくされたものである。

(二) 被告の管理体制充実のための努力

被告の管理体制は昭和五四年当時専任理事わずか二名という弱体であり、また、かねてより民間人を専任理事に起用するようにとの行政指導もあって、当時被告は管理体制の充実と民間人の起用を急務としていたところ、昭和五四年八月に至り、ようやく柴田理事を民間人起用第一号の理事として選任するに至ったものであって、原告主張のように組合つぶしを雇ったなどということではない。

(三) 柴田理事による職場秩序の回復

(1) 就業規則研修会等

柴田理事の就任当時、被告職員の勤務状態は非常に緩んでおり、例えば、古参の者はほとんど年間四〇日に及ぶ有給休暇権を有し完全消化に近い状態であったが、これらの有給休暇の指定も当日の朝電話で連絡してくる状態であり、更に、生理休暇、産前産後の休暇と相まって、職場によっては職員の三分の一が出勤しない日もあり、業務に著しい支障を来たすこともしばしばといった実情にあった。そのため、柴田理事は、職員に対して有給休暇の行使方法、時季変更権等の就業規則を周知徹底させ、職場秩序を回復する必要性を痛感し就業規則研修会等を開催することにした。そして、昭和五四年の九月から一〇月にかけて原告主張のような係長会議、研修会等を開催したが、その内容は、1財団の経理内容、2有給休暇の行使方法と時季変更権、3法内残業についての協力、4就業規則に規定してある服務規律、業務指揮命令権、賞罰規定について懇切に職員に説明したもので、厳罰主義で職制への絶対服従を迫ったとか組合員を恫喝したという批判は全く当たらない。

(2) 労使慣行廃絶問題

柴田理事は、昭和五四年九月二六日、組合を促して春闘妥結協定書の調印をすませた。その中に原告ら主張のような条項があったが、もともと組合側には時間内の組合活動について業務の支障のない限りという条件を撤廃せよとの要求があり、被告にはその意思のないことを主張した結果、一定の組合活動については、一応業務上の支障のないものと扱い届出制にすることで妥協したもので、その後被告の再三の要求にもかかわらず、同年一〇月下旬に至るまで組合から一定の組合活動の範囲についての申出でがなかった。したがって一定の組合活動につき別途協定されるまでは、時間内の組合活動はすべて業務上支障あるものとして別に許可を得ない限り許されないことは自明の理である。原告らは、一定の組合活動については就業時間内においても認めるとの労使慣行が成立していた旨主張するが、そのような事実はなく、仮にそのような時間内組合活動が反覆実行されていたとしても、それはヤミ慣行というべきもので法的拘束力はなく、確立した労使慣行といえるようなものではない。したがって、被告の一〇月二二日付通告をもって組合つぶしの策謀などとする原告側の主張が当たらないことは明らかである。

2  「村八分」事件について被告の対応

(1) 被告は、前記のとおり昭和五四年一〇月二六日井上を売店に配転したが、同月三〇日に至って、井上より大江係長に対し、あんな職場には一日も我慢が出来ないからすぐ食堂へ戻してほしい、それでなければ辞めるとの要求があったため、やむをえず同月三一日再び食堂へ戻した。

(2) すると、組合は売店に欠員が生じたから増員するよう迫ってきたので、同年一一月一九日山田を、同月二二日俣野をそれぞれ採用して売店に配属し、その補充を図った。

(3) ところが、同月一九日、井上から被告に対し、一一月に入ってから、食堂においても売店の時と同様、口をきかない、仕事を与えない等の村八分的な処遇を受けているということで善処を求める抗議文が提出され、更に同年一二月一日にも、いまだに右のような状況が続いており、一部職員からこれが組合指令によるものである旨打ち明けられたので善処を求めるという趣旨の抗議文が提出された。

(4) 同月一一日寝具部に欠員が生じたので山田を売店より寝具係に配転したが、同月一三日、山田、俣野の両名から被告宛に抗議文が提出され、右両名が売店において村八分のような仕打ちを受けているが、それは、原告中川が中心になって他の職員とともに実行している、また、組合がやらせているとの噂もあるので善処されたいという内容であった。また、同月一四日には、井上から三度目の抗議文が提出された。

(5) これに対し、被告は、井上からの二度目の抗議文が提出された同月一日ころから柴田理事をして調査に当たらせ、井上らからの事情聴取、売店、食堂の一部職員からの事情聴取をした結果、前記のような「村八分」の実情が判明したのである。そこで、財団は、同月二七日、組合と原告らに対し直ちにかかる行為をやめるように警告する文書を発送し、更に、昭和五五年一月五日人権問題臨時調査委員会を設置して更に調査を続けたものである。

(6) 以上のような経緯で「村八分」の実態が判明した以上、それが重大な人権侵害行為であることに鑑みて被告が原告らの解雇に踏みきるのは当然であって、原告ら主張のような意図により本件解雇をしたものでは決してない。

3  不当労働行為及び権利濫用の主張について

被告は原告ら主張のように原告らの組合活動を嫌悪して本件解雇を行なったものではなく、また、主張した解雇理由に加えて、諸般の事情を勘案のうえ原告らを企業外に放逐するもやむなしと思料し、組合との労働協約に則り五回に及ぶ解雇事前協議を経た末、退職勧告をし、更に当然懲戒解雇相当のところを特段の配慮により普通解雇に付したものであって、解雇権濫用等のとがめを受けるいわれはない。

第三証拠

本件記録中の書証目録、証人等目録に記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

第一当事者及び本件解雇

被告が、京大病院における医学研究の奨励、病院運営に対する寄与、患者の慰藉、職員及び学生に対する便宜の供与等を行い、もって医学の振興と社会文化の向上に貢献することを目的として大正一二年に設立された財団法人であり、従業員数約一〇〇名(昭和五五年当時)で京大病院内における食堂、売店、喫茶、薬局、寝具、給食の六部門の事業を行なっていること、原告らがいずれも被告の従業員であって、原告西村は給食事務係、原告中川は売店係として勤務していたものであること、被告が昭和五五年四月三日原告らを本件解雇に付し、同日以降原告らの雇用契約上の地位を争いその就労を拒絶していること、以上の事実は当事者間に争いがない。

第二本件解雇理由の存在

一  背景事情

1  被告及び組合の概況

前記当事者間に争いのない事実に、(証拠略)を総合すれば、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。

(一) 被告は約一〇〇名の従業員を擁し、食堂、売店、喫茶、薬局、寝具、給食の六部門の事業を行なっているが、各職場は京大病院構内の各所に点在しており、もともと被告による一括管理が困難な状況にある。そして、昭和五四年当時の被告の管理体制は、専任理事としては、同年八月一日に柴田理事が就任するまでは理事長と常務理事の合計二名のみであり、職制としては、係長、主任、副主任、班長があったが、そのうち非組合員は総務部の係長二名(前記大江係長及び労務兼寝具係長野崎泰三(以下「野崎係長」という。))のみであり、その余の現業部門の職制はすべて組合員という状況にあった。

(二) 一方、組合は、昭和三七年九月一四日結成され、一時京医労和進会支部に組織変更されたが、昭和五三年一〇月再び単独労組に改組され、現在に至っている。そして、昭和五四年当時、組合長の原告西村、並川書記長、池垣副組合長で組合三役を組み、また、各職場にはそれぞれ執行委員を配置し、これら執行委員と組合三役らで執行委員会を構成して組合運営に当たっていたが、前記のとおり、総務部の係長二名を除いて職制を含む全従業員を組合員としており、被告との間には、ユニオンショップ協定、唯一交渉約款(以上、昭和三七年一二月締結)、人事に関する事前協議約款(昭和五二年五月締結)等の協定を締結していた。

2  昭和五二年以降の労使間の推移

原告西村が組合長であり、原告中川が売店における組合活動の要をなす組合員であったこと、柴田理事が昭和五四年八月被告の理事に就任したことは当事者間に争いがなく、右争いのない事実に、(証拠略)を総合すれば、次の事実が認められる。

(一) 原告西村は、組合結成以降三期連続組合長をした後、昭和四〇年以降仲上義男と組合長を交替していたが、同人の退職に伴い、昭和五一年一〇月の定期大会で再び組合長に選出され、以後連続して組合長の職にあって、並川書記長とともにその後の組合の活動を指導してきた。そして、被告の管理体制が前記のとおり弱体であったことから、経営管理の面で欠けるところがあり、そのためもあって、組合は、以後、単に経済闘争だけでなく、こまごまとした職場改善事項や職員の事故の補償問題を取り上げたり、一部職制の不正、管理能力を問題にするなど、被告の経営全般にわたり様々な要求をするようになった。

(二) また、原告中川は、以前執行委員、副組合長等の組合の役職についたこともあったが、昭和四八年一〇月以降は、三人の子供の育児のこともあって特に役職にはつかなかったものの、売店において、あるいは婦人組合員のなかにおいて、団結の要としての役割を果たしてきた。そして、右職制の不正問題等に当たっては、昭和五二年の村上売店係長に関する商品横領問題、昭和五四年の右村上係長の後任岸田係長に関する管理能力欠如の問題について、その問題提起及び職場団交における被告の管理責任の追及等において、終始中心的な役割を果たした。

(三) 被告は、病院患者への給食、殊に医師の指示に基づき特別に調理した給食(以下「特別調理食」という。)の安定供給には最大の配慮をせざるをえない立場にあり、京大病院に設置された給食等問題検討委員会からもストライキ時の患者給食業務の安定化を求められていた。ところが、昭和五四年の春闘において、組合は病院側の要求する特別調理食の食数には応じられないとして、食数を減らすか、又は特別調理食要員の増員を求めて、昭和五二年に締結されていた保安協定(組合は争議時においても特別調理食の供給業務については運搬を除いて支障をきたさないという趣旨のもの)の破棄通告をし、特別調理食業務を含めてストライキに入る構えをみせた。その結果、被告において増員の要求をのむなどの形で組合との間に一応の妥結をみたが、春闘要求事項中の時間内組合活動等の点については、双方の主張が噛み合わない部分もあったため、春闘妥結協定書は調印されないままであった。

(四) 昭和五四年八月一日柴田理事が被告の理事に就任し、主に労務管理を担当することになったが、右春闘妥結協定書が未調印であったことから、組合側と数回事務折衝をして各条項を詰めたうえ、同年九月二六日労使双方が春闘妥結協定書に調印した。なお、右協定書中には「財団は労働時間内において、組合が行う一定の組合活動を認める。実施にあたっては組合は事前に届け出るものとする。一定の組合活動については別途協定する。」旨の条項(以下「別途協議条項」という。)があった。

(五) 被告は、右春闘妥結協定書調印後、「一定の組合活動」に関する組合案を提出するよう再三催促したが組合がこれを提出しようとしなかったため、同年一〇月二二日、組合に対し、「従来黙示的又は明示的に行われて来た貴組合の時間内組合活動は労使の慣行としてありましたが、貴組合の春斗要求に依り昭和五四年九月二六日協定書の通りの協約が成立しました。此の協約の成立に伴い旧来の労使慣行は廃絶となりましたが労使間では一定の組合活動に関する協定が未だに締結されずにあり成立までは貴組合としても全く組合活動(時間内)が出来ない状況で何かとご支障が生じている事と存じます。当財団としては法の許す限りに於て春斗協定通りの対案を用意しておりますから、此の案件は貴組合の要求事項でもあり出来るだけ速かに協議にはいり双方に誤りのないよう致したく思料しています故、宜しくご配慮されますよう願います。」との文書(以下「労使慣行廃絶通告」という。)を送付した。

(六) また、柴田理事は、同年九月二五日の係長会議をはじめとして、同年一〇月に入ってから盛んに係長会議、職制会議を開催したが、その内容は労働契約、業務命令、職場秩序、職制の権限等の労務管理上の基本問題や就業規則の説明であって、その中で特に強調されたのは職場秩序、職場規律の確立ということにあった。更に、同月二一日から同月二五日にかけて、被告の全従業員を対象とした就業規則研修会を開催したが、その内容は、被告の最大の問題が管理体制の弱体にあるとしたうえ、労働時間、配転、有給休暇の取り方、法内残業、服務規律等就業規則上の基本事項を説明したものである。この中で、柴田理事は「職場離脱は重罪だ。自分は軍人だったが、その持ち場を離れて銃殺された人を見た。」、「協約が成立して別途協定ということになって、それが未締結なのだから、その協約ができるまでは一分たりとも時間内組合活動はできない。」、「四〇〇人(従業員の家族を含む。)の幸せのためには一人、二人のことはかまっていられない。腐ったリンゴは取り除かなければならない。」、「上司の命令は絶対に聞かなければならない。」、「これまでのことは不問に付すが、今後は反抗するものはビシビシ処分する。」などと発言した。

(七) 組合は、右労使慣行廃絶通告、就業規則研修会での発言に加えて、同月二四日売店の柿の値札付けの件で柴田理事が原告中川をしっ責したこと、同月二六、二七日原告西村、池垣副組合長に「退職金がたくさんありますなあ。」などと告げたこと、同月二九日特別調理食用の手鍋の柄が折れていたとして鍋をほうり出し吉田係長(組合員)らをしっ責したことなどから、柴田理事が組合に対して不当な攻撃を加えているものと判断し、まず同月二六日に労使慣行廃絶通告に対し釈明を求める書面を送り、同月二九、三〇日には売店の柿の値札付けの件や手鍋をほうり出した件に抗議する組合ビラ(「わしんかい」)を配布し、更に、同日、全職場集会を開催して、その席上、来賓の川中宏弁護士が、柴田理事の就業規則研修会の内容を批判し、今後の労使紛争に備え被告側の動きを分析する資料とするため柴田理事らの言動をメモすること(以下「メモ闘争」という。)を示唆した。このようにして、組合は柴田理事との対決姿勢を固め、一一月早々から全職場に「和進会に労務屋はいらない。」、「暗黒の職場になった」などと書いたビラを貼付、配布し、また、組合員に右のような内容のワッペンを着用させ、メモ闘争を実施させるなどして、柴田理事排斥のための事実上の争議体制に入っていった。

(八) 組合及び組合員は、かねてから柴田理事の前歴及び就任目的に対して不審を抱き、組合つぶしを主たる目的として就任してきたのではないかとの警戒心を深めていたが、同月八日組合が主催した決起集会において、運輸一般の宮川分会員から柴田理事がかつて全自運(現「運輸一般」)山幸運輸分会をつぶしたことのある労務屋だとの報告があったため、組合及び組合員の多くは柴田理事就任の目的は組合をつぶすことにあるとの確信を持つに至り、ますます柴田理事排斥の声が高まっていった。

(九) 組合は、同月九日、臨時大会を開催し、年末一時金闘争及び職場の民主化と権利を防衛する闘いの遂行等に関するストライキ投票を実施してストライキ権を確立する一方、ビラ、ワッペン、立看板(そのうちには「労務屋は出て行け」などと記載した立看板もあった。)などにより柴田理事排斥のための事実上の争議状態を継続し、これに対し、被告からは、ビラの貼付、配布、ワッペンの着用等の中止を求める警告書が次々に出されるという状態になった。その間、同月一三日には労使間で団交の場が持たれ、その中で労使慣行廃絶通告について組合側が被告に釈明を求める場面があったが、組合側が別途協議条項につき、「一定の組合活動」についての別途協定が成立しない以上従前どおりの時間内組合活動がそのまま許されるという見解を有していたのに対し、被告は右別途協定が成立しない以上許可を得ない時間内組合活動はできないとの労使慣行廃絶通告同様の見解を有し、労使双方で意見の一致をみなかった。更に、同年一二月六日には年末一時金交渉に関する団交が持たれたが、組合の要求により柴田理事欠席のまま交渉が行われ労使間で年末一時金に関する妥結が成立した。

以上の事実が認められ、(証拠判断略)、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

なお、被告は、組合が昭和五二年九月三〇日から同五四年一二月二八日までの間に、一三名の被告の職員又はアルバイトに対し、「村八分」類似の嫌がらせを行い、もってこれらの者に退職を余儀なくさせた旨主張するが、(証拠略)によれば、食堂の辻係長、売店の村上係長、岸田係長らの退職に関し、殊に岸田係長の場合は、元々自分には能力がないと固辞する同係長を原告中川らが皆で助けると言って係長に推挙しておきながら、係長就任後同係長の管理能力を事ごとにあげつらい、遂には、被告の管理責任追及のためということではあったが組合の職場集会を開催し、同係長の面前でこの問題について被告理事らと応酬したため、暗に同係長を吊しあげるような形になり、同係長はこのような状況を苦にして退職したとして、一部職員の間には、組合及び原告中川らが同係長らの存在を無視し、あるいは同係長らの落ち度を吊しあげることによって退職に追いやった面があるとして、同係長らに同情する見方も存在したことが窺われるものの、それ以上に、被告主張のように組合等が「村八分」類似の仕打ちにより被告の職員又はアルバイトを退職させた事実まで確認するに足りる証拠はない(ただし、売店のアルバイト川合の件については後記のとおり。)。

二  「村八分」事件について

1  「村八分」事件の経緯

井上が昭和五四年一〇月五日アルバイトとして被告に採用され食堂に配属されて洗い場を担当していたこと、同月二六日から売店に配転になり、同月三〇日再び食堂に戻ってきたこと、山田が同年一一月一九日アルバイトとして被告に採用され売店に配属されてサッカーを担当していたこと、山田が以前売店副主任をしていたことがあり、当時原告中川らの上司であったこと、同年一二月一一日寝具係に配転になったこと、俣野が同年一一月二二日アルバイトとして被告に採用され売店に配属されてサッカーを担当していたこと、以上の事実は当事者間に争いがなく、右争いのない事実に、前記認定事実、(証拠略)を総合すれば、次の事実が認められる。

(一) 井上(昭和一八年九月三〇日生)は、かつて柴田理事が第一生命京都支社京阪支部に在籍していた当時の部下で、その後も就職の世話をしてもらったり、結婚の際に仲人になってもらうなど柴田理事とは極めて親しい間柄にあったが、勤務先を退職して就職先を捜していたところを柴田理事の誘いで、昭和五四年一〇月五日から、産休職員の補充にアルバイト(ただし、雇用期間の定めはなく勤務時間も正職員と同じ。)として被告に雇用され、即日食堂に配属されて洗い場を担当するようになった。

(二) 食堂は、病院の外来患者や職員に朝食と昼食を供するためのもので、当時、その職員数は沢井係長外一三名であったが、欠勤者があるため通常の勤務者数は一一、二名であった。調理場は、めん類部門に沢井係長専属、和食部門に調理師の平井と補助、洋食部門に調理師の水谷と補助、洗い場係一名の配置となっており、他に客席係としてレジ一名、ウエイトレス三名が配置されていたが、調理補助は主として女子職員が当たり各持場をローテーションで移動することになっていた。なお、開店時間は午前八時で、同八時四五分から朝食を提供しつつ昼食の下ごしらえにかかるが、この間は、洗い場係等の他の職員、アルバイトもフライの衣付け等の調理補助をするのが通常であった。

(三) 井上が食堂に配属されるに際し、沢井係長は食堂職員に対し、今度来るアルバイトは柴田理事と親しい人だから気をつけるようにという旨のことを言ったが、これについて食堂職員の多くは、井上を通じて食堂における組合活動や職員の勤務状況が柴田理事に知れる恐れがあるから何事につけ注意するようにという意味にとりはしたものの、それ以上、さして気にとめなかった。もっとも、井上は、従前のアルバイトがほとんど主婦か学生であったのに対し働き盛りの男であったこと、従前のアルバイトと異なり雇用期間の定めもなく勤務時間も正職員と同様であったこと、総務の部屋へしばしば出入りすること等から、食堂職員の中には井上の配属の意味について不審に思うものもあったが、当初はそれ以上に井上排斥の動きもなく、井上は、洗い場を担当する傍ら、洗い物の少ない午前一一時ころまでは水谷の指図でフライの衣付け等の調理補助に従事し、一方、洗い場が忙しくなると他職員が井上の洗い物を手伝うなど、その勤務に別段変わったところはなかった。

(四) 売店は、病院の患者、職員等に食料品、日用品などを販売するためのスーパーマーケット形式の店舗で、当時、その職員数は一一名であったが、欠勤者がでるため通常の勤務数は八、九名であり、売店係長は業務係長を兼任する大江係長(非組合員)であったが、同係長は通常総務部に詰めているため、売店に来るのは開店、閉店時のみであり、現場で事実上の責任者の役割を果たしていたのは原告中川であった。レジは東レジと西レジの二台があり、女子職員が各一名レジ担当となり、それにサッカー一名が付けられ、その他は、販売員として女子職員一、二名、事務担当に男子職員、女子職員各一名、検品値付け担当として男子職員一名、配達倉庫担当として男子職員一名を配置していたが、右担当事務は事務担当を除いてローテーションで移動することになっていた。また、開店時間は午前九時で閉店時間は午後五時となっており、繁忙時は開店までの一五分間と午前一一時三〇分ころから午後一時ころまでである。なお、アルバイトはサッカーを担当するのが通常であった。

(五) 従来から、売店は原告中川を中心に組合活動が盛んであったが、同年一〇月二六日ころは、前記の柿の値札付けの一件、労使慣行廃絶通告、就業規則研修会等における柴田理事の一連の言動に対し、反発と警戒の空気が強く、また、井上が柴田理事と新しい間柄にあることなども既に原告中川を通じて売店職員の耳に達していた。また、当時、売店には同月一七日配属のアルバイト川合がいたが、この川合についても、組合幹部や原告中川らが柴田理事の妾であるとの噂を流し、そのため売店職員らは川合を白眼視し、川合の面前で同人ひとりを除け者にして皆でケーキを食べるというような嫌がらせまでしたため、このような仕打ちに耐えかねた川合は、同月三一日被告を退職するに至った。

(六) 井上は、同月二六日朝、沢井係長から売店の人手が足りないので売店に行ってくれと言われ、急拠売店に派遣された。ところが、売店では、売店職員がほとんどしゃべってくれず、挨拶をしても返礼がないのはもちろん、事ごとにつっけんどんな応対をされるという状態であったため、売店での勤務に耐えきれなくなり、同月三〇日、大江係長らに配転してくれるよう頼み込み、同係長らにおいても井上が勤務場所を変えてくれなければ辞めるとまで言うため、やむなく同日付で元の食堂へ配置換えした。そこで、井上は同日以降食堂に戻ったが、食堂へ戻った当初は他の食堂職員からも歓迎され、売店派遣以前と同様、普通に仕事をしていた。

ただ、前記のとおり、同日は全職場集会が開催されているが、その席上、川合の退職の件が報告され、それに対して出席者から拍手が起こったが、その際、平井が立ち上がって「まだ食堂にも一人いる。」などと発言する一幕があった。また、井上は、一〇月中にもよく総務の部屋へ柴田理事を訪ねて行っていたが、一一月に入ってからは更に頻繁に柴田理事を訪ねるようになり、その状況は、そのころから組合の指令で行われるようになっていたメモ闘争により、これを目撃した組合員らから組合にも報告されていた。

(七) 同年一一月以降は、前記のとおり組合は柴田理事排斥のための事実上の争議状態に入っていたため組合の執行委員会は頻繁に開催されるようになったが、同月五日の執行委員会終了後の雑談中に、原告西村らの面前で、並川書記長が食堂選出の執行委員水谷に対し、「井上は柴田のスパイやさかいに、仕事も親切に教えるな、口もきかんでええさかいに。」、「とりあえず食堂のみんなに実行さすように。あんたは執行委員やからしっかりしなあかんで。」などと指示し、水谷はこれを受けて、翌朝、食堂職員に「今日から井上としゃべったらあかんで。これはもう執行委員会で決まったことやさかいにな。」などと告げた。また、同月八日には、前記のとおり、組合の決起集会で柴田理事が以前に全自運山幸運輸分会をつぶした経歴の持ち主であると組合員に報告され、多くの組合員が柴田理事の目的は組合をつぶすことにあると思うようになった。

(八) 同月九日からは、食堂職員の態度は一変しそのほぼ全員が井上の存在を無視し、口をきかないばかりか、挨拶に対して返礼もしなくなった。従前は水谷らが手伝わせていたフライの衣付け等の調理補助の仕事を井上が催促しても故意に断わり、その間他の者は非常に忙しく働いているのに井上一人が仕事もない洗い場で水をいじって時を過ごさざるをえないような状態に放置し、逆に、井上の本来の担当である洗い場の繁忙時には、従前のように他職員が手を貸すこともほとんどなくなり、更に井上を困らせるために故意に食器の催促をするなどの嫌がらせをした。もっとも、女子職員の中には一応挨拶を返したりする者もないではなかったが、それも周囲をはばかって瞬間的にする程度であり、一方、男子職員はほとんど完全に井上と口をきかず挨拶もしないなど井上の存在を無視する態度に終始した。殊に、食堂の中で最も熱心な組合活動家であった平井は、他の職員が井上としゃべっていたり、調理補助の仕事を与えようとしているのを見るとこれを制止したりして、他の職員を監視、強要するなど、終始その中心的な役割を果たした。なお、これらの仕打ちのうち主要なものを例示すると、<1>同月九日以降、食堂において、井上が朝の挨拶をしても誰も返礼しない。<2>同日以降、井上が主に水谷の指示でこれまでやってきた昼食の仕込みの補助作業をしようとして、水谷に対し、「エビのフライ、私がしましょうか。」などと催促しても、「いや、わしがやるわ。」とか、他に手のあいている者などいないのに「ほかの人が手があいているから、その人にやってもらうわ。」などと断わり、仕事をさせてくれない(もっとも、その後、平井が不在の時などに水谷が黙って仕込みの仕事を与えてくれることもあったことは後記のとおりである。)。<3>被告では全職員に昼食を支給しており、食堂では午後一時三〇分から同三時までの間に二交代で休憩室において昼食をとることになっているが、これまで井上と一緒に行っていた人も全く声をかけてくれないようになり、井上が昼食に行くとそれまで雑談をしながら食事をしていた一同が急に黙り込んでしまう。<4>同月一九日ころ、たまたま欠勤者が多く食堂の人手が極度に不足していたため、この日に限って、水谷が井上に対し昼食の仕込みを命じた。井上は、これに従いはしたものの、日頃は仕事を取り上げておいて都合の良い時だけ頼む身勝手さに腹が立ち、「なんで今日は仕事をさせるのや。」と文句を言ったところ、水谷は、「理解してほしい。」とだけ答えた。<5>同月二六日ころ、大野がかしわのフライをやっていたところ、井上が「私がやりましょうか。」と声をかけると一度仕事をかわってくれながら、これを見た平井が「仕事をやらせたらあかんやないか。」などと大野をしっ責したため、大野もあわてて井上から仕事を取り上げてしまった。この際、井上が沢井係長に抗議をしたところ、同係長も見かねて大野に対しそちらは井上に任せてネギを切るよう命じたが、平井が仕事の段取りがあるなどと言ってこれを制止した。<6>また、そのころ、食堂職員の訴外西美智子(以下「西」という。)が仕事のことで井上に話しかけようとした際、平井が飛んできて、西に対し、「仕事をさしたらあかんやないか。辞めさせるぞ。」などとしっ責した。<7>平井は、しばしば、井上に聞こえよがしに、「柴田の阿呆が。スパイなんか使いやがって。」などと雑言を吐いたなどである。一方、井上は、このような仕打ちに耐えかねて、沢井係長に対し、「皆しゃべらないし、こんな仕事ようしません。」などと抗議し、その了解を得たうえ早退し、又は、職場に出るのが嫌になって欠勤したこともある。

なお、右のような状況は、後記のように、被告が組合及び原告らに対し「村八分」を中止するよう求めた「重大警告書」を出すころまで続いたが、食堂では、平井を除き、井上に対する右のような処遇を実行することに必ずしも積極的ではなく、平井がうるさく言うので仕方なく実行していたような面があり、水谷なども、しばしば「わしはそうではないんやけど、そう言われるし仕様がないんや。」などと洩らし、平井がいない時には周囲に気づかいながらも黙って井上にフライの仕込みの仕事を与えたりしているし、女子職員らも、「折角アルバイトで来てもらっている人にお仕事をささなんだら、いてもいなくても同じことだ。」、「組合がいうてはるんやさかい。組合が後ろにいやはる。辛抱しよう。」などと言い合っていた。また、井上が水谷及び沢井係長に抗議したのに対して、水谷らは、「平井から言われているし、組合の指示で仕方なくやっている。」、「今の組合には逆らえへん。今までおった人も何人も辞めていった。」などと返答していた。

(九) 山田(昭和八年一二月二二日生)は、井上が食堂に戻った後、売店の補充要求により新たに配属されていた訴外江口美佐子がすぐに辞めたため、再度売店に生じた欠員を補充するため、昭和五四年一一月一九日、アルバイト(ただし雇用期間の定めはなく勤務時間も正職員と同じ。)として被告に雇用され、直ちに売店に配属されてサッカーの仕事を担当するようになった。山田は、昭和二八年から同四四年までの間被告に勤務していたことがあり、売店にも約一〇年間(うち三年は副主任)の勤務経験があったが、被告退職後弟と共同経営していた会社を退職したことから、旧知の大江係長の世話で再び被告に再就職してきたものである。そのような関係で配属初日は原告中川ら旧知の職員から歓迎され、そのころ、原告中川と長谷川から、被告の現状について聞かされたりした。ところが配属後間もなく、原告中川らが山田は大江係長の関係で入ってきたので総務の廻し者だと言い出し、そのころから、売店職員は、見越を除いて、ほとんど口をきかなくなり、殊更に冷たい応対をするようになった。その具体的な状況を例示すると、<1>同月二一日ころ、出入業者が売店にクリスマスツリーセットを持ってきた際、たまたま原告中川が、これは売店に飾らんと喫茶に飾った方がよい旨言っているのを聞いた山田が、何気なく、そのセットは売店の物やから、この店で飾った方がよいのと違うかという旨言葉をはさんだところ、原告中川は、昭ちゃんはバイトやから、関係ない人やから、私のすることに口出しせんといてなどと吐きすてるように言った。<2>同月二六日ころの昼過ぎ、山田が中西(当時二〇歳くらい)とペアを組んでサッカーをしていた際、レジを担当していた中西が背中越しに一万円札三枚を山田に渡して両替を指示したが、故意に早口で金種を言うので山田はこれを聞きとれず、問い直したところ、中西はええ年をしてしっかりせなあかんやないかなどと客の面前でしっ責し、再度金種を告げたもののやはり故意に早口で言うため、再びこれを聞きとれず、やむなく自分の判断で両替して渡したところ、中西は私の言ったのと間違っているやないかとつっけんどんに言った。この際、傍らにいた山口も、これを見てせせら笑っていた。<3>同年一二月初めころ、納品にやってきた業者がたまたま顔なじみであったことから、山田が検品を自分でしようとすると、原告中川が飛んできて、他に客もなくサッカーの仕事もない状態であったのに、アルバイトやから検品せんでよい旨言って納品伝票をひったくってしまった。<4>同月四日ころ、山田がいつものように休憩室で昼食をとっていた際、たまたま山田の座った場所の茶碗に御飯がよそってなかったので、お櫃の傍らに座っていた原告中川に御飯をよそってもらおうと茶碗を差し出したところ、平素は他の者によそってやったりしているのに、御飯は自分でつぐようにしてんかという旨言って、お櫃を山田の前に突き出した(もっとも、山田は、昼食後の食器は各自が洗うことになっていたのに自分で洗おうとしなかったために、他の職員のひんしゅくを買っていた面はあった。)などである。一方、山田にとっては、売店職員の多くは若年の女子職員であり、しかも原告中川ら一部職員はかつての自分の部下にも当たるため、以上のような仕打ちを受けて大きな精神的苦痛を味わい、大江係長にもしばしば「なんでこんなことをされるねんや。何とかならんのか。」などとこぼしていたが、同月一〇日ころには、大江係長を通じ「何とかしてくれないと辞めさせてもらう。」旨総務に伝えてもらい、被告の方でも同月一一日付で山田を寝具係に配転した。そして、寝具係へ配転後は、寝具係での山田の職務が主として外勤だったこともあって、山田は売店におけるような仕打ちを受けることもなくなった。

(一〇) 俣野(昭和二〇年二月二日生)は、同志社大学を卒業後すぐ会社に就職したが、出向を命じられたことを嫌って退職した。その後保険外交員をするなどして他の就職先を捜していたが、母親のお茶の先生の世話で柴田理事を紹介してもらい柴田理事から話を聞いたものの、アルバイトということだったので就職をためらっていた。ところが、柴田理事から再度誘いがあったため被告に就職することにし、昭和五四年一一月二二日、アルバイト(ただし、雇用期間の定めはなく勤務時間も正職員と同じ。)として被告に雇用され、即日売店に配属されてサッカーを担当することになった。ところが、原告中川ら売店職員は、山田の補充により特に欠員もないのに売店に配属された俣野の配属理由を不審に思い、また、従前のアルバイトと雇用条件が全く異なること等食堂職員が井上に抱いた疑問と同様の理由で、俣野は柴田理事のスパイとして配属されたものと思っていた。なお、俣野の配属初日に食堂の水谷がたまたま売店の前を通りかかったところ、原告中川が俣野の方をあごで指して、「水谷さん、今度あんなおかしな人が来たんよ。あんなの来たんよ。」と言ったことがある。一方、俣野は、配属初日から売店職員の応対が殊更に冷たいので不審に思っていたが、その後も仕事上の必要最少限の指示を除いては他の売店職員がほとんどしゃべってくれず、挨拶に対して返礼もしてくれないばかりか、客の面前で侮辱されるなどの嫌がらせを受け続けた。その具体的な状況を例示すると、<1>一一月二二日の初出勤の日、原告中川から取り敢えずふき掃除をしてくれと言われ、商品棚のふき掃除をし一時間くらいで終わってしまったが、その後誰も声をかけてくれないので空調機の掃除をして過した。昼食時には休憩室で昼食をとったが皆黙ったままで話しかけてこず、また午後になっても誰からも作業指示のないままうろうろして過ごした。<2>同月二四日ころの出動時、俣野が売店入口で入口が開くのを待っていた三名の女子職員に「お早うございます。」と声をかけたが無視された。なお、挨拶に対する返礼のない状態はその後も続いたが、なかでも、岡村は俣野より早く出勤してタイムカードの横で新聞を読んでいることが多く、これに対し俣野が挨拶しても全くの無視に終始した。<3>同月二六日ころ、俣野が三沢(当時二〇歳くらい)とペアを組んでサッカーをしていた際、俣野は客から煙草一個の注文を受けてこれを取り出したが、どこに入れてよいか分からず、その客の籠に入れれば間違いがないと判断して煙草を籠に入れたところ、レジの三沢が客の面前で「本当におかしな人。この人おかしな人。」と繰り返し、更に、客が途切れた後、「あなたわざわざ入れんでも私耳がついているのだから計算くらいできる。変なことしんといて。」と言った(もっとも、煙草一個だけを籠に入れるとレジの二度打ちの恐れがある。ただし、三沢はその理由を説明することをしていない。)。<4>右と同じ日の昼食時、御飯は一膳目は担当者がよそっておき二膳目は各自がよそって食べることにはなっていたが、俣野の座った位置がたまたまお櫃の反対側であったため、お代わりをお櫃の傍らに座っていた中西に頼んだところ、中西は御飯をよそってはくれたものの、故意にお櫃のふたをほうり投げるという嫌がらせをした。このことは、当時、被告従業員間で噂になっている。<5>同年一二月一二日ころ、俣野は三沢とペアを組んでサッカーをしていたが、俣野が手の不自由な客から財布を預かって商品代金を代わりに出してあげようとしていた際、これを見た後の客が自分の買った商品を自分で袋に入れようとしたところ、三沢は右の事情を知りながら、お客に何ということをさせるのかなどと俣野を非難した。この時は、手の不自由な客が自分の商品代金を代わりに出してもらっていたのだと言ってとりなしてくれたため、一応収まった。<6>同月中ころ、たまたまレジ備付けの牛乳用ストローが切れたため、サッカーをしていた俣野が対面サッカーのものをもらってこようとすると、レジの中西がこれを制止するので同人に予備ストローの所在を尋ねたところ、「倉庫」としか答えてくれず、やむなく倉庫に行って捜したもののどうしても見付からなかったので、中西の見ていないすきに対面サッカーからストローをもらってきて補充した。<7>レジとサッカーの仕事は共同作業であり、レジはサッカーが仕事をしやすいように打ち終わった商品をサッカーの手前に置くのが常識であり、また、そうしないと繁忙時などに客ごとの商品の区別がつかなくなるなどサッカーの仕事に支障をきたすことになる。ところが、俣野とペアを組むことのあるレジ担当の三沢、中西、長谷川は、レジを打ち終わった商品を故意にサッカーの手前でなく客が置いた場所の近くに置くという嫌がらせをするため、俣野はしばしば、まだ打ち終わっていない商品を袋に入れたり、他の客の商品を間違って袋に入れてしまったりした。もっとも、俣野自身が不慣れのためミスをすることもないではなかったが、そのような際、右の三人は、客の面前で、「何してんの。間違えんといてや。」、「どこに目をつけてるの。」、「四つも目をつけてしっかりし。」などと眼鏡を使用する俣野を侮辱することがしばしばあったなどである。一方、俣野は、その間、同年一二月一四日ころの朝には、他の売店職員の前で、大江係長に対し、「僕の年より一〇歳以上も若い子に、普段は無視されて、事あるごとに客の前で侮辱される。何も悪いことをしてへんのにこんな仕打ちを受ける道理はない。」などと抗議し、「我慢できへんから早退さしてもらう。」と言って早退してしまっている。なお、この後、大江係長は原告中川ら四、五人の売店職員に「俣野君は今怒っていたけれど嫌がらせみたいなことやっているのか。」と尋ねたが、何もしていないという返事であった。なお、右のような状況は、後記のように被告が組合及び原告らに対し「村八分」の中止を求めた「重大警告書」を出すころまで続いた。

(一一) 以上の期間を通じ、食堂の平井や売店の山口は毎日のように組合事務所に行って、原告西村らに職場の状況を話しているし、一方、原告西村及び並川書記長も始終売店及び食堂に顔を見せており、その際、原告西村が食堂の水谷に対して「もうぽつぽつ、あいつ辞めてしまいよるで。もう山越したんと違うか。」などと言ったこともあり、また、並川書記長は水谷に対し、しばしば、売店に比べると食堂はやり方が生ぬるい、もっと厳しくやれと言っていた。

また、一二月初めの執行委員会の際には、正規の議題以外の雑談の中ではあったが、原告西村及び並川書記長が売店はアルバイトに対する攻撃を一生懸命やっているという話をしたので、水谷が売店選出の訴外村北美佐子(以下「村北」という。)に対し売店はどういう攻撃をしているかと聞くと、村北は俣野が御飯のお代わりのために茶碗を差し出した際、わざとお櫃のふたをほうり投げた旨話した。

なお、一二月中の食堂の職場集会では、平井が日頃から沢井係長の指示を無視したり、昼を過ぎると職場を離脱して組合事務所に行ってしまい帰ってこなくなること等に対して食堂職員から強い批判が出たが、その際、小畠らが井上の処遇について、たまたま出席していた原告西村に対し、こんなことは組合がやらせているのかと尋ねたところ、原告西村は「組合はそんな指令は出してない。しかし、井上は柴田の手先だから余りしゃべらない方がよい。」旨回答した。この原告西村の回答につき、小畠らは公式には組合がそんな指令を出したと言える筈がないではないかという風に受け取り、やはり後ろに組合がついていると感じた。

(一二) 井上ら三人のアルバイトは、その間、何度か沢井係長ら職制に抗議をしているが何ら事態を改善してくれようとせず、また、柴田理事や被告理事長に対しても抗議に行っているが、これらの抗議もなかなか信用されず取り上げられなかった。そこで、右三人は、同月一五日に集まって、食堂及び売店で行われている仕打ちをやめさせるべく団結しようと話し合い、同月二六日、人権侵害行為があったとして京都地方法務局人権擁護委員会に申し立て、その後夕刊京都にもそのことを記事にするよう求めたりした(もっとも、人権擁護委員会も夕刊京都も結局取り上げていない。)。

(一三) 一方、被告の総務部内では、当初は井上の抗議等を半信半疑でみていたが、柴田理事は食堂職員の西の退職時に、西から食堂で井上の訴えるようなことが行われていること、自分もこれを強要されたが、それに加担するのが嫌であることも退職の一因であることを聞いて調査の必要を感じるようになった。しかし、当時これが組合指令で行われているとの噂があっただけに、被告理事長らは組合から不当労働行為との非難を受けることを恐れて調査に対し慎重論であったところ、同月一〇日ころから柴田理事が内々独自に調査を進めた結果、食堂職員の水谷、小畠、亀元雪枝らから井上らが訴えるような仕打ちが行われているとの証言を得ることができたため、ようやく総務部内でも意思統一が成立し、同月二七日、組合三役に対し、組合が井上らアルバイトに対して村八分差別行為を指令したとの訴えがあるので中止するよう求める「重大警告書」を手渡し、また、原告らに同人らが中心となって行なっている村八分差別行為を直ちに中止するよう求める「重大警告書」を発送した。

(一四) 右井上ら三人のアルバイトは、正月明けの昭和五五年一月五日、「人権守る会」というピンクの腕章をつけて勤務中の原告ら及び並川書記長に抗議し、更に同月八日にも原告西村、平井に抗議した。また、被告は、柴田理事を委員長とする人権問題臨時調査委員会を設置し、同月七日、食堂の従業員から食堂における村八分差別行為の有無について事情聴取を行い、翌八日には、売店職員を一人ずつ呼び出し、井上らアルバイト三人も同席させて事情聴取しようとしたが、その報告を受けた組合三役を含む数十名の組合員らが押しかけてきて調査方法に問題があると抗議したため、同委員会はその後の事情聴取の打ち切りを余儀なくされた。

以上の事実が認められ、(証拠判断略)、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

なお(証拠略)によれば、水谷の地労委での証言内容はすべて嘘であった旨の記載部分があるが、その内容についての具体性に欠けるから、右認定を左右するに足るものではない。

2  原告らの関与

(一) (証拠略)によれば、原告ら及び並川書記長は、組合とは別個に被告従業員中の共産党員のみで構成され毎週一回(ほぼ水曜日)原告中川宅等で開催される共産党支部会議(以下「支部会議」という。)の中心メンバーであり、食堂の平井も同会議のメンバーであったこと、右支部会議は共産党という特定政党の集会ではあるが、同会議のメンバーが組合の中核をなしていることもあって、その場で組合運営についての根廻しが行われることもあったこと、昭和五四年一〇月以降は柴田理事や井上らアルバイトのこともしばしば話題にのぼり、その排斥が話し合われていたこと、原告中川や平井から売店や食堂の状況が報告されていたこと、以上の事実が認められ、(証拠判断略)、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

(二) 右認定事実に前記(第二の一、二1)の認定事実を合わせ考慮すると、原告らは、昭和五四年一〇月以降の柴田理事の言動を不当な組合攻撃とみなして反発し、新規採用された井上ら三人のアルバイトをその採用の経緯等から柴田理事のスパイ又は手先であると疑い、柴田理事排斥運動の一環として井上、山田、俣野の三人のアルバイトを退職に追い込むため、支部会議等の機会に並川書記長及び平井ら一部組合員と共謀のうえ、組合活動としてとはいえないまでも、少なくとも、組合の勢威の背景の下に、執行委員や平井を介し、又は自ら組合事務所、各職場において、他の売店及び食堂職員をあおり、唆すなどして、売店及び食堂職員のほぼ全員をして、井上、山田、俣野のアルバイト三人に対し、いわゆる共同絶交行為を実行せしめ、原告中川は、自らも売店において共同絶交行為を率先実行したものであることが認められる。

三  原告西村に関するその他の解雇理由

1  職務怠慢行為について

原告西村が給食事務係副主任であること、その職務のうちに材料受払簿の記帳と出勤カードの整理があり、昭和五四年一〇月の時点で材料受払簿の整理が数か月分遅れていたこと、出勤カードの整理が給食係の職員五〇余名のタイムカードにより早出、残業、有給休暇等の区分けをしてカードに記入する仕事で賃金計算の基礎となるものであること、以上の事実は当事者間に争いがなく、右争いのない事実に(証拠略)を総合すれば、次の事実が認められる。

(一) 原告西村は、給食事務係副主任であり、その主要職務のうちに材料受払簿の記帳と出勤カードの整理、付添食の集金がある。

右のうち、材料受払簿は給食材料の受け払いにつき、黒田政之助給食事務係主任(以下「黒田主任」という。)から廻ってきた給食材料の伝票に基づき受け、払い、残を毎日記帳していくべきものであって、基準給食の承認基準の中に入っており、京都府保健課、左京保健所の監査の際に調査されるものである。

(二) ところが、原告西村が昭和五一年一〇月に組合長に選出されてからは、組合業務等と称して離席することが多く余り職務に身が入らない状態で、右受払簿の記帳は単純な作業でさほど時間をとるものでないにもかかわらず、吉田係長や黒田主任の再三の注意にも従わず、記帳が二、三か月遅れるのはほとんど常態といった形になり、昭和五四年一〇月当時には、同年三月分までの記載しかなされていない状態であった。そして、受払簿の記帳が右のような状態であったため、吉田係長や黒田主任らは、保健所等の監査の際に受払簿を見せなくて済むよう苦労したこともある。

(三) また、出勤カードの整理は、給食係の職員五〇余名のタイムカードにより早出、残業、有給休暇等の区分けをしてカードに記入する作業で、賃金計算の基礎となるものであるが、それに関する西村の作業も非常にミスが多く、賃金計算を担当する総務や現場の職員からもしばしば苦情が出て、吉田係長に担当を代わってくれという声もあったくらいであった。

以上の事実が認められ、(証拠判断略)、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

なお、被告は、他にも昭和五四年一〇月に原告西村が吉田係長に出勤カードの整理を押し付けることにより職務を放棄した旨主張するが、(証拠略)に徴しても、同月原告西村から組合業務が忙しく出勤カードの整理を代わってほしいと頼まれた吉田係長が、総務等から前記のような声が出ていたこともあって一応任意に引き受けたものであることが認められ、他に被告の右主張を認めるに足りる証拠もない。

2  係長日誌の取り上げ、返却行為について

被告が昭和五四年一二月二〇日五名の係長に対して係長日誌を交付しその記帳を命じたこと、同月二二日、原告西村ら組合三役が被告理事長に対し右五名の係長の係長日誌を一括返却したことは当事者間に争いがなく、右争いのない事実に、(証拠略)を総合すれば、次の事実が認められる。

(一) 柴田理事は、昭和五四年一二月一八日の係長会議において、職員の勤務の正否、特に時間内の職場の無許可離脱の状況、同僚間の親和、不和の状況等について記帳して報告するよう指示し、同月二〇日、五名の係長に大学ノートを渡した。

(二) ところが、右五名の係長は、組合員でもあるのに組合活動についてまで記載しなければならなくなること、また、仕事が忙しくて自分の部下のすべてに目は届かず記帳に不公平が出る恐れがあることなどで悩み、食堂の沢井係長が池垣副組合長に相談を持ちかけたことなどから、皆で集まって組合と相談することになった。

(三) そして、同月二一日、右五名の係長らと原告西村ら組合幹部、上部団体の委員長、書記長及びたまたま顔を見せていた川中弁護士らで係長日誌の取り扱いについて相談した結果、川中弁護士らも法律上の意見等を述べたものの、何よりも右五名の係長自身が、記帳が不公平になって職員から憎まれると困る、記載の仕方によっては職員のプライバシーを侵害することにもなりかねないなどとして、つけないで済ませるものならそうしたい旨意見が一致した。

(四) ただ、右係長らは、個々に返却した場合に業務命令違反に問われることを恐れ、組合三役にその返却を依頼し、これを受けて、翌二二日、原告西村ら組合三役が被告理事長に対し右五名の係長から預った大学ノートを一括返却した。

以上の事実が認められ、(証拠判断略)、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

以上によれば、右係長日誌の返却は右五名の係長の自発的意思によって決定され、右係長らの依頼によって組合が右係長日誌を一括返却したものであるということができる。

3  ビラ貼付、配布行為

組合が昭和五四年一一月上旬から食堂、売店、喫茶室、薬局の入口、休憩室等にビラを貼付したこと、被告の撤去命令に従わなかったこと、同年一〇月三〇日に給食配膳盆に組合ビラをのせて配布したことは当事者間に争いがなく、右争いのない事実に(証拠略)を総合すれば、組合は、柴田理事が特別調理食用の手鍋の柄が折れているとしてこれをほうり出し吉田係長らをしっ責した件等について、同月三〇日、これに抗議するビラを給食配膳盆にのせるなどの方法で京大病院の入院患者らに配布したこと、また、組合は、被告から食堂、売店等の各職場毎に専用掲示板、黒板を貸与されているにもかかわらず、同年一一月初めころから、被告の許可を得ることなく、前記(第二の一2)の柴田理事の一連の言動に抗議するため、「労務屋に和進会は任せられない」「暗黒の職場になった」などと組合のアッピールを記載した新聞紙大のビラを数十枚、被告の管理する食堂、売店、喫茶室、薬局、和進会館の入口等に貼付し、その後の再三にわたる被告の撤去命令を無視して撤去しようとしなかったことが認められる。

また、被告は、他にも、これらのビラの作成、貼付、配布行為が就業時間内になされたこと、同年一一月中には就業時間内のビラ配布が継続されたことをも主張するようであるが、主張のような行為の存否、具体的な日時、回数、態様等を確認するに足りるだけの証拠がない。

第三本件解雇手続の経緯

前記(第一)当事者間に争いのない事実に、(証拠略)によれば、次の事実が認められ、他に右認定に反する証拠はない。

1  原告らの解雇案は、昭和五五年一月初めころから、京大病院関係の理事を含む被告理事会において検討され、同月下旬ころには、原告ら及び並川書記長、池垣副組合長、平井、岡村の合計六名の解雇が決定された。右解雇案に関する被告理事会の会議においては、本件において解雇理由として主張されている件だけではなく、他に原告らの上司に対する日頃の不服従等についても議論されたが、なかでも重視されたのは「村八分」事件についてであった。

2  右解雇案は、同年二月一三日、組合との団交の席上発表されたが、その内容は、右六名について懲戒解雇相当の解雇事由があるが、同人らの将来を特に考慮して、任意退職を勧告し、これに応じない場合は普通解雇するというものであった。

3  更に、被告は、組合との間に人事に関する協議約款があるところから、これに則り、組合及びその上部団体たる京医労の関係者出席の下に、同月二八日(第一回)、同年三月六日(第二回)、同月一一日(第三回)、同月一八日(第四回)、同月二五日(第五回)の五回にわたる本件解雇に関する事前協議を経たうえ、右六名の解雇対象者それぞれにつき、「村八分」事件への関与程度、その後の反省状況等の諸般の事情を考慮して、池垣副組合長、平井、岡村の三名を解雇対象からはずし、同年四月三日、組合に対して、原告ら及び並川組合長に対し同日付で退職勧告し、この勧告を受け入れないときは解雇する旨の通知書を手渡したが、原告ら及び並川書記長が任意退職を拒否したため、同日右三名を普通解雇(解雇予告手当を提供)に付した。

なお、(証拠略)には、右解雇案に関し、京大病院関係の理事が、理事会で解雇を決めたのは三名だ、他の三名は柴田理事の作戦だろうと述べた旨の陳述記載部分があるが、その発言自体一部推測を含むものであり、また、解雇案の発表とともに詳細な「六名処分に関する協議資料」(<証拠略>)が組合に手渡されている事実に照らし、右発言内容をそのまま信用することはできない。

第四本件解雇の効力

一  本件において、被告は、就業規則上の懲戒事由該当の理由(懲戒解雇相当)をもって原告らを普通解雇に付しているものであるので、まずその法律上の効力について検討する。成立に争いのない(証拠略)によれば、被告の就業規則は、第二章に「懲戒」についての定めがあるが、同章中の六五条において「職員が次の各号の一に該当する行為があったときはそれぞれの情状に応じて懲戒する。」として全一六項の懲戒事由を定め、六六条で「懲戒は次の四種とする。」として、譴責、減給、諭旨退職、懲戒解雇の四種の懲戒処分を列挙している(以上、別紙(四)参照)が、その反面、普通解雇については、第七章「解雇および退職」中の三七条一項に「職員を解雇するときは、三〇日前に予告をする。ただし、予告期間については予告手当の支給によってこれを短縮し、または、これをおかないことがある。」と規定するだけで、普通解雇事由については格別定めがないことが認められ、また、労働協約等によって普通解雇事由が定められている旨の証拠もない。してみれば、普通解雇については、何ら解雇事由の制限はないのであるから、本件におけるように懲戒事由に該当する所為があることを理由として、懲戒処分としての懲戒解雇にせず普通解雇にとどめることも当然許されるものというべきである。ただ、右所為が形式的に懲戒事由に該当するとしても、解雇権を濫用したものと認められるような事情がある場合には右普通解雇も無効になるというべきであるが、その判断に当たっては、懲戒解雇との関係で解雇権濫用の成否を考える必要はなく、普通解雇との関係でその成否を考えれば足りるものと解する。

以上のような観点から、以下に本件解雇の効力について検討する。

二  懲戒事由該当性

1  (証拠略)によれば、被告の就業規則には、服務規律、懲戒等について別紙(四)記載のような定めがあることが認められる(なお、懲戒については既に認定したところである。)。

2  前記(第二の二)認定にかかる原告らの所為(「村八分」事件)を右就業規則の規定に照らすと、原告らの右所為は、少なくとも、服務規律を定めた就業規則四条一項、六条三号、一四号に違反し、企業秩序を破壊し業務運営を妨害するものであって、懲戒事由を定めた就業規則六五条四号(「職場内の秩序、風紀を紊す行為があった場合」)に該当するものであることが明らかである。

3  前記(第二の三1)認定にかかる原告西村の所為(職務怠慢)は、少なくとも、服務規律を定めた就業規則四条一項、六条二号、一四号に違反し、懲戒事由を定めた就業規則六五条三号後段(「……勤務に不熱心な場合」)に該当するものであることが明らかである。

4  次に、前記(第二の三3)認定にかかる組合の行為(ビラ貼付、配布行為)について検討する。まず、「労務屋に和進会は任せられない」などと記載したビラを、被告から貸与されていた専用掲示板以外の食堂、売店、喫茶室等の入口に無許可で貼付した点についてみるに、労働組合又はその組合員が使用者の許諾を得ないで使用者の使用し管理する物的施設を利用して組合活動を行うことは、これらの者に対しその利用を許さないことが当該施設につき使用者が有する権利の濫用であると認められるような特段の事情がある場合を除いては、当該施設を管理利用する使用者の権限を侵し、企業秩序を乱すものであり、正当な組合活動に当たらないと解すべきところ、本件においては、外来の顧客に見える場所に組合のアッピールを記載したビラを貼付したものであり、その大きさ、内容、枚数等に照らし、当該施設を管理利用する使用者の権限を侵し、企業秩序を乱すものであって、前記のように右ビラは被告に対する事実上の争議状態下で貼付されたものであることを考慮しても、正当な組合活動に当たらないものといわざるをえない(また、他に右特段の事情を認めるに足りる証拠はない。)。そうすると、これらのビラ貼りを組合員に指令し、また、被告の再三にわたる撤去命令にも応じなかった組合の組合長原告西村の行為は、就業規則上の服務規律(四条一項、六条一四号)に違反し、懲戒事由を定めた就業規則六五条四号(「職場内の秩序、風紀を紊す行為があった場合」)、一六号(「その他前各号に準ずる不都合の行為があった場合」)に各該当するものといわなければならない。

5  係長日誌の取り上げ、返却行為については、前記認定(第二の三2)の事実に照らせば、係長らがその自発的意思によってこれを返却したにすぎないとみるべきであるから、これら係長を業務命令違反等に問うのは別論、原告西村を就業規則違反に問うことができないのは明らかである。

三  解雇権の濫用について

1  前記(第二の二)認定事実によれば、原告らに共通の懲戒事由該当事実であるいわゆる「村八分」事件は、柴田理事の就任後の言動等に反発した原告らが、新規採用された井上ら三人のアルバイトをその採用の経緯等から柴田理事のスパイ又は手先であると疑い、柴田理事排斥運動の一環として、並川書記長及び平井ら一部組合員と共謀のうえ、右三人のアルバイトを職場から排斥する目的で、組合の勢威の背景の下に、他の売店及び食堂の組合員をあおり、唆す等して、売店及び食堂のほぼ全員の職員をして、職場において井上ら三人のアルバイトに対するいわゆる共同絶交行為を実行させ、あるいは、原告中川においては自らもこれを率先実行したというものである。右のような共同絶交行為は、一定の職場という限られた社会生活の場において行われるものであるとはいえ、従業員にとって右職場は日常生活の重要な基盤を構成する場であり、それが実行されると、そのもたらす大きな精神的苦痛のために、その従業員はその意に反して右職場から離脱せざるをえなくなり、ひいては退職に追い込まれることになるであろうことは、現に、本件において、井上、山田がその精神的苦痛に耐えかねて売店から他に配転してもらっていること、井上ら二人のアルバイトと同様、売店にアルバイトとして配属されていた川合が売店職員の仕打ちに耐えかねて退職してしまっていることに照らしても明らかである。加えて、本件においては、食堂の一部職員などその実行を快しとしない者にまで、組合の勢威の背景の下に、その実行を強いる形になっていたことが窺われるのであって、その点からも、原告らの右所為の違法性は極めて重大であるといわざるを得ない。なお、いわゆる共同絶交行為は、一定の共同生活体において一部の者の存在を他の共同生活者全員が無視する点にその核心部分があり、それに伴う嫌がらせ等の積極的な行為はその附随的な部分にすぎないから、共同絶交行為の違法性の評価に当たってはこれらを総合的に評価すべきであって、原告ら主張のように個々の行為をとらえて、それが些細なものにすぎないなどと論じるこは正(ママ)鵠を得たものとはいい難く、相当でない。また、これを、被告の企業秩序及び業務運営に対する影響という観点からみても、結果的には井上らの早退、欠勤又は作業能率の低下をもたらし、被告の業務運営が現実に阻害されているばかりでなく、右のような行為が陰湿かつ卑劣な手段であるために、その加担を嫌った一部職員間の動揺も大きく、ひいては職員全体の士気に対し大きな悪影響を与えたことが窺われるし、更に、右のような行為がその性質上隠微な形でなされ、外部からは容易に捕捉されがたいものであるだけに、反覆実行される危険性も高く、このような事態が一たび放置されるならば、使用者の気付かないうちに、企業目的の遂行のために不可欠である適正な人員配置、良好な職場環境等の企業秩序の根幹が蝕まれ、その企業に対して及ぼす影響は極めて重大なものにならざるをえない。そして、その真偽はともかく、被告の一部職員の間に、組合及び原告中川らが従来から本件と類似の方法を用いることにより職員の一部の退職の一因を作ったとの見方が存したことは、その危険性を如実に示しているものともいえる。

2  原告らは、仮に原告らに何らかの責任があるとしても、それは組合防衛の意識からなされたものであり、柴田理事就任後の不当な言動に対し原告らが組合の組織防衛のために一定の行動をとるのは当然のことであって、被告がそのすべての原因となった自らの不当な組合攻撃を措いて、ひとり原告らのみを責めるのは片手落ちである旨主張する。しかしながら、仮に、当時被告が不当な組合攻撃をなしたとしても、原告らが他の正当な手段に訴えて組織防衛を図るのなら格別、組合または組合員に対し特段の態度、行動に出ることのなかった(これを認める証拠はない。)井上ら三人のアルバイトに対し、前記のような共同絶交行為という手段に訴えることは明らかに組織防衛の域を逸脱しているというべきであるから、右主張は既にその点において失当たるを免れないというべきであるが、右原告らの主張のうち、すべての原因となったのは被告の不当な組合攻撃にあるとする点についても、ここで検討しておく。

原告らが右に不当な組合攻撃というのは、労使慣行廃絶問題、就業規則研修会等における研修内容及びその他の柴田理事の言動にあると思われる。

(一) 労使慣行廃絶問題について

原告らは、被告と組合間には従来から許可なしに時間内組合活動を許容する労使慣行が存したところ、昭和五四年春闘時に、右労使慣行の労働協約化を図るために労使間で協議をした結果、同年九月二六日、春闘妥結協定書中の別途協議条項が成立したが、労使間には別途協定が成立するまでの間は、従前の労使慣行に従うという了解があったのに、被告は、同年一〇月二二日、一方的に時間内組合活動に関する右労使慣行は廃絶された旨通告してきた(労使慣行廃絶通告)というのである。

しかしながら、右労使慣行の点については、たとえ従来から時間内組合活動が反覆継続されてきたとしても(ちなみに、組合の行なってきた時間内組合活動が相当大幅なものであったことは、前記のとおりそれが原告西村の職務怠慢の一因になっていたこと、平井の組合活動と称しての就業時間内の離席について組合員の内部からも批判がでていたことによっても窺える。)、本来賃金を失うことなく就業時間内に組合活動をすることは労働組合法七条三号との関係もあって許されないところであるから、そのことだけで直ちに確立した労使慣行となるものではなく、他に労使間を法的に拘束するような労使慣行が成立していたことを認めるに足りる証拠もない(なお、労使慣行廃絶通告中の「労使慣行」という言葉も、証人柴田国男の証言によっても窺われるように、確立した労使慣行という意味に使われているのではないと思われる。)。そうすると、仮に被告が職場規律の確立等の見地から許可を得ない時間内組合活動を全面的に廃止する旨通告したとしても、そのことをとらえて不当な組合攻撃ということはできない。しかも、前記(第二の一2)認定事実によれば、同月二二日付の労使慣行廃絶通告の内容は、右のように時間内組合活動を全面的に廃止するというのではなく、右別途協議条項の解釈上、「一定の組合活動」の範囲についての別途協定ができない限り、許可を得ないで行う時間内組合活動は一切できないことになるから、早く別途協議に入るよう組合に催促したものであるから、仮に被告の右解釈が誤っていたとしても、組合としては別途協議を急ぐことによって無用の紛争を避けられた筈のものである。もっとも、原告らは、右別途協議条項の成立時点において、「一定の組合活動」についての別途協定が成立するまでの間は、従来のままの時間内組合活動をすべて認める旨の了解が労使間にあったのに被告が右了解を踏みにじったものである旨主張するが、(証拠略)中の右のような了解が存した旨の陳述記載部分は証人柴田国男の証言に照らしてにわかに措信できず、他に右了解が存したことを認めるに足りる証拠はない。

そうすると、労使慣行廃絶をめぐる被告の行動をもって、直ちに不当な組合攻撃ということはできないというべきである。

(二) 就業規則研修会等について

前記(第二の一2)認定事実によれば、係長会議、就業規則研修会等における柴田理事の発言のメインテーマは、企業秩序と職場規律の確立という点にあったことが明らかであり、就業規則研修会における講習内容も、労働時間、配転、有給休暇の取り方、法内残業、服務規律等就業規則上の基本事項についてであって、その説明内容にも格別不当なところはない。ただ、就業規則研修会での発言中、比喩的な表現の中に若干穏当を欠く措辞があり、これが組合を刺激したであろうことは容易に推測しうるものの、その具体的な内容自体は、例えば、時間内組合活動に関する部分をみると、労使慣行廃絶通告との関連でこれと同様の趣旨のことを述べているにすぎず、労使慣行廃絶通告自体が直ちに不当なものとはいえないこと前記のとおりであるから、これをもって不当なものとはなし難いし、他の発言も職場規律を強調するものとしてその内容自体は特に不当なものとはいい難い。更に、原告らが不当な組合攻撃として挙げる原告西村、池垣副組合長に対して退職金のことを告げた件、売店の柿の値札につき原告中川をしっ責した件、特別調理食用の手鍋の柄が取れていたとしてこれをほうり投げ吉田係長らをしっ責した件についても、柴田理事のこれらの言動がいささか穏当を欠くものであったことは否定できないものの、原告らの主張のように、これらの言動をもって直ちに組合に対する攻撃としてとらえることには、にわかにくみし難い。

以上検討してきたところによれば、原告らが井上ら三人のアルバイトに対する共同絶交行為を実行していた時点において、被告が客観的に不当な組合攻撃をしていたものとは認めることができない。

3  原告らは、新和労は、一たん組合から新和労に移転し、本件解雇後新和労から組合へ復帰しようとした者に対し徹底した個人攻撃を行なってその一部を退職に追い込んでいるのに、被告はこれを放置しており、このことに比べると本件解雇は均衡を失したものであって不当である旨主張する。しかしながら、右の新和労に関する件は本件全証拠によっても必ずしもその詳細が明らかにされているとはいい難いのみならず、原告らの主張自体によっても、右の件はすべて本件解雇から二年近く経った昭和五七年四月以降のことであり、また、組合の分裂に基づく組合員の移転に絡むもので、本件とは時期、機会、事案の性質等を全く異にするものであることは明らかであるから、本件に関する被告の対応と右の原告ら主張の件に関する被告の対応との間で比較均衡を論ずることは相当でないといわざるをえず、したがって、原告らの右主張もまた採用できない。

4  以上の事情、殊に前記1の事情に照らせば、原告らの共同絶交行為の実行に関する責任のみをとっても十分懲戒解雇に値し、被告に対して原告らとの雇用関係の継続を期待することは困難であるといわざるをえないうえ、原告西村については職務怠慢(前記第二の三1及び第四の二3)、組合活動としてのビラ貼付(前記第二の三3及び第四の二4)に関する責任も認められること、また、本件解雇は正規の手続を履践したうえ、原告らの将来を特に考慮して、懲戒解雇に付さず、退職勧告をしたうえで普通解雇するにとどめたものであること(前記第三)、他に解雇権の濫用となる事情を窺わしめるに足りる証拠もないことを総合すると、被告が原告らを本件解雇に付したことは社会通念上相当として是認することができ、何ら合理性を欠くものとはいえないものというべきである。したがって、本件解雇が解雇権の濫用であるとする原告らの主張は採用できない。

四  不当労働行為について

原告らは、被告が原告らの組合活動を嫌悪し、原告らを企業外に放逐する目的で本件解雇に及んだものである旨主張するので、以下に検討する。

原告西村が組合長であり、原告中川が売店における組合活動の要をなす組合員であったことは当事者間に争いがなく、前記(第二の一2)認定事実なかんずく、原告西村は組合結成以降三期連続組合長をした後、一時組合長を仲上義男と交替していたが、昭和五一年一〇月の定期大会で再び組合長に選出され、以後連続して組合長の職にあって、並川書記長とともにその後の組合活動を指導してきたこと、原告中川は、執行委員、副組合長等の組合の役職についたこともあったが、昭和四八年一〇月以降は特に役職にはつかなかったものの、売店あるいは婦人組合員のなかにおいて中心的な組合活動家であったこと、昭和五二年以降の組合活動は一部職制の不正、管理能力を問題にするなど、単に経済闘争だけでなく被告の経営全般にわたってその責任を追及し、また、当時被告は京大病院の給食等問題検討委員会から患者給食の供給の安定化を求められている状況にあったのに、組合は昭和五四年の春闘時、被告が最大の配慮をせざるをえない特別調理食業務についてまでストライキの構えをみせたこと、就業時間内組合活動の多かったこと、その他本件解雇理由である共同絶交行為、ビラの貼付問題があったこと、柴田理事が開催した就業規則研修会において、「四〇〇人の幸せのためには一人、二人のことはかまっていられない。腐ったリンゴは取り除かなければならない。」などの発言をしたこと、そのころ、原告西村及び池垣副組合長に対し、「退職金がたくさんありますな。」などと告げたことのほか、(証拠略)を総合すれば、新和労は、被告の原告ら解雇問題の調査、検討時期と相前後して昭和五五年一月一六日、結成通知と記載されたビラを被告に提出し、同月二八日結成集会が開催されたこと、新和労には組合から水谷ら約三八名(正職員)が加入したほか、井上ら三人のアルバイト、組合との関係で非組合員とされていた大江係長及び野崎係長(ただし、右二名はその後間もなく新和労との関係でも非組合員となった。)も加入したこと、そのころ、新和労と「人権守る会」はいずれも組合を激しく攻撃するビラを配付したこと、同月二四日には、「人権を守る会」名義で未だ公表もされていないのにかかわらず「旧和労組三役の解雇決定す!」との記載のあるビラが配付され、その後新和労が発行したビラは、そのほとんどすべてが、組合、上部団体、原告らに対する攻撃記事と柴田理事に対する支持の記事で埋っていること、新和労結成前の昭和五四年一二月から同五五年一月にかけて新和労の中心的メンバーが柴田理事が宿泊している聖護院御殿荘に出入りしていることが認められ、これらの事実からすると新和労の結成について柴田理事が何らかの形で関与していることが窺えること等の事実関係に徴すると、本件解雇当時、被告が組合を嫌悪し、反組合的意思を有していたこと、したがって、その中心的な存在である原告ら及び並川書記長に対しても同様の意思を有していたであろうことは推測するに難くないところであるが、しかし、そうであるからといって、直ちに、本件解雇がそのことを決定的動機又は理由としてなされたものであると断じることは相当でない。使用者側に反組合的意思があり、その徴ひょうと認むべき事実がある場合でも、被解雇者側に別に解雇に値する事由、特に顕著な解雇理由がある場合には、使用者側の反組合的意思の実現というよりはむしろ解雇理由の重大さのために解雇を断行することは十分に考えられるところであるからである。本件においてこれをみるに、原告らが挙げる被告の組合に対する攻撃、すなわち、就業規則研修会等、労使慣行の一方的廃絶、柴田理事の言動は、その一部において穏当を欠くものがあるもののそのほとんどは不当なものといい難いこと前記認定のとおりであるうえ、本件解雇が解雇権の濫用に当らず、原告らの解雇理由のうち、共同絶交行為を実行した点はその違法性が極めて重大で、その性質上、一たびこのような行為が放置されるならば、被告の企業秩序の根幹が蝕まれる恐れのあることは前記説示のとおりであって、組合員であると否とを問わず解雇に付されてもやむを得ない性質のものというべく、また、原告らが徒らにその責任を否認し、何ら反省を示していないこともこれまで認定してきた事実に照らし明らかである以上、被告に原告らとの雇用関係の継続を求めることは困難であるというほかないことに徴すれば、柴田理事が新和労の結成に関与したであろうことを考慮に入れてもなお本件解雇の決定的原因が右反組合的意図にあったとはにわかに断定し難く、むしろ、本件解雇は原告らの右共同絶交行為の実行等に対する責任を問うことを決定的動機又は理由としてなされたものと認めるのが相当である。

更に、原告らは、本件解雇後被告は多くの不当労働行為を繰り返し、不当配転、昇格昇任人事における差別等、新和労の組合員に比し組合の組合員を不当に冷遇しているとも主張するけれども、仮にそれが事実であるとしても、そのことは基本的には事後の事情にすぎず、また、本件解雇当時において被告に反組合的意思があったことを窺わしめる一つの間接的事情とはいえるにしても、本件解雇が原告らの共同絶交行為の実行等に対する責任を問うことを決定的動機又は理由としてなされたとする右判断を左右するに足りないというべきである。

そうすると、本件解雇は不当労働行為には該当しないというべきであるから、この点に関する原告らの主張もまた採用できない。

第五結論

以上によれば、原告らの本訴請求はすべて理由がないので、失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 宮地英雄 裁判官 下山保男 裁判官 小野洋一)

別紙(四) 被告就業規則(抄)

4条(職制)

1 職員は、この規則をまもり、職務上の責任を重んじて業務に精励し、同僚互に扶け合い、職制に定められた上長の指示に従わなくてはならない。

6条(服務規律)

職員は、次の事項を守り職務に専念しなければならない。

2 自己の職務は、これを正確且つ迅速に処理し、常にその能率化を図ること。

3 業務遂行に当っては、病院内に設立された財団法人である本会の主旨を尊重し、利用者に対しては、親切丁寧に接すると共に常に同僚互に扶け合い円滑なる運営を期すること。

4 本会の名誉を害し信用を傷つけるようなことはしないこと。

6 職務の権限を超えて専断的なことを行なわないこと。

10 上長の許可を受けないでみだりに職場を離れ、または業務に関係のないことをしないこと。

14 その他この規則、または、上長の指示に反する行為をしないこと。

65条(懲戒)

職員が次の各号の一に該当する行為があったときは、それぞれの情に応じて懲戒する。

3 出勤常ならずまたは、勤務に不熱心な場合

4 職場内の秩序、風紀を紊す行為があった場合

5 素行不良その他本会の体面を汚すような行為があった場合

6 正当な理由なく業務命令または、指示に従わない場合

8 他人に暴行、脅迫を加え、またはこれにより業務の遂行を阻害した場合

9 本会の運営に関することを故意に歪曲して流布、宣伝した場合

16 その他前各号に準ずる不都合の行為があった場合

66条(懲戒の種別)

懲戒は、次の四種とする。

1 譴貴

2 減給

3 諭旨退職

4 懲戒解雇

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